潜る親を見つつ潜れず軽鴨(かる)の子は

日暮るるや蜘蛛の囲のまだ未完成


蝉の死のあり魂を抱くかたち

ゆるやかに老いぬ日射しの秋めけば

標高二百やや秋空に近づきぬ

盆踊りをみなら笑みもこゑもなく 




カドカワの月刊誌「俳句」9月号に「塀の中の詩人たち」として刑務所に服役中の人たちの俳句活動について書かせてもらいました。始めは彼らの作品をいくつか掲載した原稿を書いたのですが刑務所側から止められました。それで俳句作品を示さない俳句活動だけのリポートとなりました。言ってみれば「餡の無い饅頭」のようなもの、当事者としては大変不甲斐無い結果に終わりました。

日本語が存在する以上、俳句はどこにでも存在します。人が生活すればどこにでも俳句は生まれます。それを世に知らしめることは悪いことではありません。俳句に携わる者としてこの文芸の活力を後世に残せられるよう微力を尽くしてみたいと思っています。



煩悩も芥も流し夏の川


枯るること知らぬは哀し水中花

噴水の伸びて縮んで子が跳ねて

退屈で鬱になるかも金魚たち

南吹く離島を今も獲り合ひぬ

盆の月身にメス入れしこと三度(みたび) 




句集『羽羽』で本年度の蛇笏賞を受賞された正木ゆう子さんに「青銅亡く青風のあり青山河」の一句があります。 

金子青銅は20代から病と闘い、40代には死の瀬戸際まで行きました。輸血を重ねても下血が止まりません。そのとき彼が詠んだ一句は「今生はちぎれちぎれや血止め草」でした。 

ところが奇跡的に、本当に奇跡的に手術が成功し回復しました。そこで彼は詠みました。「にんげんは元来強し土用の芽」と。

しかしその後肝炎を患い、平成22年8月8日、66歳で亡くなりました。最後の句集には「いのち賭け命を摑む膩蝉」の一句。命を摑むことに懸命な一生でした。今年は金子青銅の七回忌になります。



美濃と云ふ器へ夏の川注ぐ


旭光や飛び立ちさうな合歓の花

夏盛ん雲吐く山と吸ふ山と

捩花の捩ぢり疲れて夕日浴ぶ

化粧とは将に化け方四葩咲く

蟇出づる宙(そら)と交信するために 




毎朝のウォーキング。周囲2kmの池の途中の阿舎でベトナム人の若者と知り合いになりました。名前をズン君と言います。彼はスマホを見ながら日本語の勉強をしていました。

来日以来1年を越えているのですが、毎日工場で他の仲間と忙しく働くばかり。日本語に触れる機会が頻繁とは言えないため話す力は十分ではありません。しかし懸命に覚えようとする思いは感じられました。彼は30歳。国にお父さんと2人の兄弟がおり、お母さんは既に亡くなっているとのこと。

それで、少しでもズン君の日本語が上達するように毎日短時間ですが会話をしています。真剣に学ぼうとしている若者の眼は美しいものです。頑張れ、ズン君です。



若葉光尾張へ注ぐ木曾の水

水中の修羅を生むべく鵜の潜る

麗かや美濃を美州と云ふことも

緑濃し耳にラバーズコンチェルト

五月かな鳥の鋭声が交叉して

一脚の椅子買ひ座せば夏めきぬ 




時は去る5月14日午前、所は東海道新幹線下り車中でのこと。
隣り合った二人の乗客の間で会話が始まりました。


女性「どこへ行かれるの?」
男性「岐阜県の関市です。そこの小瀬鵜飼を見に行くのです。友達が関市に住んでいて案内してくれるのですよ。」
女性「関市と言えば私の知り合いで俳句をやっている人がいますよ。清水青風さんというのですけどね。」
男性「えっ?その清水君のところへ行くのですよ!」
女性「えっ!」


嘘のような本当の話です。女性は「圓座」主宰の名古屋の武藤紀子さん、男性は横浜在住のF君。彼とは50年振りの再会でした。これぞ将にWhat a coincidence!でした。



春夕焼赤子乳房のほか知らず


春の峰美濃を美州と云ひしこと

陽炎の坩堝へ走者また走者

龍天に登りて妻の機嫌よし

蒲公英や子は陽に遊び風に舞ひ

畦厚く塗り父祖の田の水封ず

 



幼少の記憶は個人差があります。ものの本に拠れば、胸にひたひたと迫る産湯の波の記憶のある人もいるとか。産湯までは遡りませんが、筆者の最も古い記憶は父に背負われ、防空壕に入っていたときのものです。父の脚下に泥状の水があったことを覚えています。2歳余の筆者にとっては極めて強烈な印象を与えた場面でした。それが昭和20年6月朝の各務原市空襲であったか、7月夜の岐阜市空襲であったかは分かりません。
その次の記憶は、男の人たちがスコップを使ってその防空壕を埋め立てている場面。立って見ている筆者の傍らに、花の名は分かりませんが白い花が咲いていました。その白さが印象的でした。



四月来るひかりの舟が着くやうに


淡海を目覚めさせんと菜花咲く

春疾風言葉は鉄砲玉に似て

紅椿恋をこひつつ晩年へ

新しき椅子心地よし水温む

殺気あり丹色のまじる春月は 




ラガーの〈五郎丸ポーズ〉で知られた大日如来像のある関市善光寺の境内に、昭和12年の支那事変で戦死した筆者の叔父貴の慰霊碑があります。当時は関町と称した地元でも初の戦死だったのでしょう。立派な戦没碑が建てられました。

3月初旬、碑の修復と清掃を従兄弟4人で行いました。その際、脇の石杭にかろうじて判読できる俳句が一句刻まれているのに気付きました。

潔く散るは芳し山桜

銘は彫られていませんでした。出征に際し叔父貴が詠んだ句か、それとも見送った人が詠んだ句かどうか分かりません。しかし20歳を過ぎて程ない叔父貴、顔も知らず、会ったこともない若者がそこにぽつねんと佇んでいました。


皺の手の皺を殖やして冴え返る


三月は庭の木々より生まれけり


面影はいつも不意なり春ショール

指間より水漏るるごと二月過ぐ

指折つて二歳と示す春着の児

春光や耳にショパンの流れ込む

 



冬になると車をスタッドレスタイヤに替えます。今年は一度も世話になることなくノーマルタイヤに戻しました。しかし一度くらいはスタッドレスタイヤで雪道を走ってみたいと思ったものでした。

但しこれは雪の被害を知らないノーテンキな人間が思うところです。多雪地に住む人たちに対して失礼な思いであることは間違いありません。今年も北の地や山陰の人々は大雪に苦しまれました。

越後の雪を一度だけ目にしたことがあります。車は走れず、長い道を人々は傘をさして黙々と歩いていました。ただ黙々と。その景は哀しさを伴うものでした。しかし同時に人間の逞しさを感じさせる景でもありました。


登校の声雪面をはずみ来る

玲瓏たる冬の嶺なり龍太なり

冬落暉ギヰと地軸を廻すのは

才子にも与太にもなれず二月の陽

個体百密に夜明けの水鳥は

冬の滝青と碧とを繋ぎ落つ 





コンピューターは今や人間社会と切り離せません。インターネットも世のあらゆる場面に用いられる時代、IoTの時代と言われています。

しかしこの世の変化は中高年にとっては厳しいものでした。MS-DOSだの、マイクロソフト、アップルだのと言われた頃からおろおろと後を付いて来ました。動き出した電車に跳び乗るようなもので、比較的楽に飛び乗った人もいたことでしょう。

本誌『流 ryu』のバックナンバーもWebで公開しています。〈俳句集流〉で検索してみてください。残念なことに自力ではなく息子にアップしてもらいました。いつまで経ってもパソコン未熟者なのだからこれも仕方ないか!


生後二萬七千余日初日受く


風疼く噂消えてもまた噂


冬空へ古書百冊を並べ売る


人は灯を麓に連ね年迎ふ


シベリウス聴けば冬空かぶさり来


美濃の空尾張の空と繋ぎ冬 




『流』は今月号で50号となりました。取り敢えずは100号を目指していますのでようやく道半ばとなりました。飯田龍太先生から受けた俳句への想いを些かでも示し得たらと微力を尽くしております。

「心を開く」という言葉があります。飯田龍太先生は文字通り俳句に心を開かれた俳人でした。結社の内外を問わず良いと思われた作品には『雲母』に限らず俳句総合誌等において惜しみない賛辞を与えられました。龍太先生の評価を得た御蔭で世に出た俳人は多かったと思います。

昨今の俳句界は賑やかです。しかし華やかな中に、飯田龍太先生に比肩するような俳人がその後見られないことは極めて残念に思われます。


伊吹嶺に星集ひゆく冬はじめ


妻留守の十二時打てば木枯しす

風音のすれど風来ず冬桜

降誕祭耶蘇となる意志亳も無し

冬めくや泣くはひとつの救ひにて

冬月や思慕も恋慕も胸の底




自宅の東隣に関市立旭ヶ丘中学校があります。3年生の大見夏鈴さんが10月に東京で開催された「少年の主張全国大会」で最優秀の内閣総理大臣賞を受賞されました。全国から55万人が応募した中で第1位を獲得されたのです。

大会前に一度大見さんのスピーチを聞いたことがあります。彼女は病気の後遺症で耳が聞こえなくなりました。手話と言葉を用いた「障害は個性」というスピーチでした。両手を動かしながらはっきりとした口調で話をされました。見事なスピーチでした。

才能は天与だと言います。大方は正しいと言えるでしょう。しかし努力が才に勝ることがある実例をこの15歳の少女は示してくれました。


月光のいま山坂を攻めのぼる 


秋闌けて峰八方に龍太の眼 


真珠抱き貝の眠れる星月夜 


大方は読まざる書籍そぞろ寒 


句稿回す秋のしづかな刻が好き 


贖罪のごと月光に身を晒す




飛騨高山の俳人日下部宵三氏より個人季刊俳誌「あかり」102号が届きました。自作品20句と共に、其号で以て終刊とのメッセージが記されてありました。平成3年4月創刊ですから足掛け25年に亘った個人誌です。

「俳句とは布衣の文芸。今様にいうなら、肩書を持たぬ庶民の詩」という飯田龍太先生の言葉があります。俳句は名や栄誉を求めることもなくこつこつと生き、せつせつと詠む人に相応しい文芸だと言えます。日下部肖三氏の態度は将にそれを具体的に示して来たものと言ってよろしいでしょう。

俳句は華やかな日本の中央にのみ存在する文芸ではありません。静かな鄙にも俳句は存在するのです。


逝く人に弔ふ人に秋の虹 

缶瓶の収集日もて九月果つ 

鮎錆びて美濃連山の澄むばかり 

蟋蟀や一ケ寺黒き影と化す 

秋の夜や熟考は紺思慮は青 

眼鏡はづして秋嶺を近く見る 




去る9月20日の早朝、第四代関市長であられた後藤昭夫氏が交通事故で亡くなられました。平成3年から16年に亘り関市の下水道整備や新市庁舎及びその周辺の建設に力を尽くされました。

市長としての功績だけでなく後藤氏は比類なき文化の貢献者でもありました。24日の葬儀の際、長年の友人である画家の石原ミチオ氏は声を詰まらせながら次のように言われました。「日本に、絵を描く市長は沢山いるでしょう。しかし画家で市長であった人はあなたしかいませんでした。」

文化を守ると言葉で言うことは簡単です。しかし身をもって示すことは難しいことです。後藤元市長はそれを実行された人でした。