月刊俳誌 -流-

空高く地に深く佛御座す秋

漁り過ぐ鵜舟は闇の山背負ひ

父母のこと丸葉縷紅の咲き出せば

静謐の山河残して帰燕かな

夏果てぬ恋知りそめし少年に

美濃の地を割る川三つ秋はじめ




シャーロックホームズのファンをシャーロッキアンと言う。同様に司馬遼太郎のファンをリョウタリアンと呼びたい。筆者は熱烈なリョウタリアンであると自覚しているが、以前にも書いたように司馬遼太郎の次の言葉に特に惹かれる。

「思想というものは本来大虚構であることをわれわれは知るべきである。思想は思想自体として存在し、思想自体として高度の論理的結晶化を遂げるところに思想の栄光があり、現実とはなんのかかわりもなく、現実とかかわりのないところに繰り返していう思想の栄光がある」

この言葉に出会ったとき、頭の中が実に爽やかになった。

司馬遼太郎は平成8年に亡くなったが、もし更に存命であったなら次に書いた物語の主人公は元禄期の大阪の町人学者富永仲基であったのではないかと勝手に想像している。(青)



暑うして木々の勢ふ木曽路かな

血脈のまた伸びて夏盛んなり

通読の一書積み足す暑き部屋

炎天下地図に無き地を行く如し

眼前を若き我行く青野かな

譬ふれば巨人の如く盛夏来し




自分の旧作を見るのは恥ずかしさを伴います。俳句を始めた動機はあまりはっきり覚えていません。飯田龍太主宰の『雲母』で友人の金子青銅氏は既に名をあげていました。『雲母』に入会したのは確か四十代に入る少し前だったと思います。俳句のあれこれを彼に教えたもらい、投句してみました。

五句投句した中で次の二句が飯田龍太選に通り初めて『雲母』に掲載されました。

 大露の雲をこらへし部落かな

 月の出に繋ぐ指なほ幼なかり

現在では「部落」の語は安易に使えませんし、二句目などは親として大甘の内容です。龍太先生も採るに迷われたことでしょう。しかし始めて雑誌に載った二句は初学の胸に焼きつきました。以降、俳句にのめり込んで行く切っ掛けとなった二句でした。(青)  


沈黙のままの龍太に梅雨果てぬ

棒立ちの身へ七月の直射光

サングラス美女ならざるも美女なりぬ

涼風や武弁の系図広げ見る

閉ぢてまた開く扇に駿馬の絵

尾根細し罷り出でたる大ムカデ




母のことを少し…。貧しい農家生まれの母は大正期の農家の女性の例に洩れず、尋常小学校卒業後は製糸会社に働きに出て家へ仕送りをしていました。父とのお見合いの際のこと、実家の暗い灯火の下で相手が分らず父と一緒にやってきた父の兄が結婚相手だと思ったそうです。

結婚後は刃物製造業で独立した父を一生懸命に助けました。少しばかり生活に余裕が生じた頃です。自転車に乗れない母は当時流行りだしたスクーターなら漕がずに乗れるだろうと思い練習のため夜の小学校のグランドへ行きました。乗って動き出したのですが止め方が分からずドドドッと花壇へ突っ込んでしまいました。爾来自力で乗るものには手を出しませんでした。

その母が91歳で亡くなってから今年はもう8年目の夏となります。(青)  


半島のしづかに春の海抱く

青虫を襲ひし蟻の百余り

雲雀地に下りず連山日を撥ねず

百日の視線に耐えて百日紅

雨意孕み五月の山は丈揃へ

君はまだマルクス読むか夏はじめ




飯田龍太の文章に東京拘置所の死刑囚との交流を記したものがあります。

初めに送られて来た二百句ほどの中には「寒夜この死の音消ゆる壁の中」のような優れた作品がありました。以後毎月選を受ける作品が送られてきましたが2年後にハタと止まったとのことでした。

筆者が岐阜刑務所のクラブ活動の一環としての俳句指導に通い始めてからもう6年が過ぎようとしています。クラブの参加者は熱心に毎月五句を提出します。内容は収監される前のこと、刑務所内のこと、家族のことなど様々です。

「新緑を格子窓より眺めけり」「リンゴ剥くこの手で人を殺めけり」「保護房や暗き色為す七変化」「万病の薬の草も枯れにけり」などなど。

異色の人生模様の作品に接していると言ってよろしいでしょう。(青)


草青む天日遅々と伊吹峰へ

雉子鳴きて朝の天地の幕揚げぬ

刃物町寝釈迦の如き山を据え

若鮎を育む水の透く日なり

とねりこの脱皮促す春日かな

生涯に師はひとりのみ春の風




人間の体には時に不思議な現象が現れます。筆者の左右の脚は長さが違うのです。新しいズボンの裾上げの際には右足が左足より2cm程短いと言われます。どうして差が生じたのか分かりません。長年の歩行の結果生じた現象と言うより他ありません。

小学2年生の夏、突然にお腹が痛くなり緊急入院しました。盲腸炎と診断され腹部の前面と右側面の二ケ所にメスを入れ盲腸切除の手術を受けました。幸い命は助かりました。

45歳の頃、大量の下血。憩室炎との診断で緊急手術を受け大腸の4分の1を切除しました。その際、手術をした外科医の先生に言われました。「盲腸は残っていますよ」。

人間の体には不思議なことが起こるものです。  (青)


四月来る美濃は陽気な雲浮かべ   

誓子忌や国捨てざれば立志無し

銀翼の点となり消ゆ春の空

花粉症斯くも辛きは何の咎

春月を仰ぐ銀河の端にゐて

春の夜や地下水脈の音聞かむ



作家司馬遼太郎が江戸前期の大阪の町人学者富永仲基に着目したことに大いに惹かれます。

富永仲基は若くして亡くなりましたが、加上論という学説を打ち出しました。後発の論者はその正しさを示すためにより古い経典を頼りに加上するという説です。司馬遼太郎の作品に富永仲基に触れたものはありませんが、司馬の次の言葉はまさに仲基と思いを同一する視線だと言えます。

「思想というものは本来大虚構であることをわれわれは知るべきである。思想は思想自体として存在し、思想自体として高度の論理的結晶化を遂げるところに思想の栄光があり、現実とはなんのかかわりもなく、現実とかかわりがないというところに繰り返していう思想の栄光がある」(司馬遼太郎「歴史の中の日本」より)(青)


恵那山の朝の霞へ鳥の落つ

春の空歪めて巨大ビル建ちぬ

群れ咲くは陽へのあこがれ犬ふぐり

鳥曇り美濃路はなべて坂ばかり

人の祖は海より来たり春夕焼

春の山重ねて故国闇となる




本阿弥書店の『俳壇』三月号「にっぽん俳句風土記」に岐阜編を書かせて戴いた。

訪れたのは岐阜、関、美濃、郡上の4市。取材の為に訪れたのは岐阜城や郡上八幡城、美濃和紙の製造場所や関の寺院などである。前に訪れてからかなりの時間が経っている場所もあり久しぶりの訪問で新鮮な印象を得ることができた。

城と云ふ器仰げば春の雲」「紙漉くは奉仕に似たり日の暮るる」「あの寺もこの寺も門開けて春」など景色を見ながら、句を詠みながら取材をする時間を持てたのは自分にとっては楽しいひとときであった。

しかし郡上市を訪れた際、取材ノートを何処かに落としたことに後で気付いた。それで再度郡上八幡市を訪れたのであったがそれも楽しい思い出となったのである。(青)


年新た飯田龍太と云ふ巨人

白梅や龍太のあとに龍太なし

飯田龍太消えて幾年冴返る

梅の空見上げて飯田龍太の忌

二ン月や龍太記憶の底に住む

白梅忌と為すゆゑ龍太許されよ




本年は飯田龍太先生の十三回忌に当たる年です。初めて先生にお会いしたのは昭和54年5月、お住まいの境川村で開催された雲母甲府の大会に参加した折でした。

龍太先生のご講演の後、大会入賞作品が発表され、最後に大会特選句の発表がありました。ここで拙句が…と言えば物語が生まれるでしょうがそうは行きませんでした。

人のすることをしてゐる花の昼」の作品が読み上げられました。すると前方の椅子に座っておられた一人の男性が静かに立ち上がり、演壇の脇におられた龍太先生に向っておもむろに一礼されました。品位のある行為が深く胸に焼付きました。後に京都の歯医者さんであることを知りましたが、俳句とは品格の文芸であることを教えられた大会となりました。(青)

   


寒雲に湧き出て飛騨の山となる

冬帝の山降り来るは駆け足で

はらからのひとり耶蘇なり年新た

冬木とは空を刺す木々友病みぬ

擦れ違ふひとの眼にある寒気かな

湯に沈み十指広げて春待ちぬ




ある日、一通の手紙が届きました。「流」に作品を重複掲載しているというご指摘でした。驚いて記録を見てみますと間違いなく同一内容の作品を3句載せていたのです。

54号の「春の嶺美濃を美州と云ひしこと」を55号で「麗かや美濃を美州と云ふことも」、58号の「日暮るるや蜘蛛の囲のまだ未完成」を59号で「沈む日や蜘蛛の囲のまだ未完成」、12号の「曼珠沙華土中より紅絞り出す」をそのまま71号でも掲載していたのです。恥ずかしいことでした。いい気になって掲載していたものです。

頂いた手紙には差出人の名が記されてありませんでした。お礼を申し上げることができなかったことが残念です。また間違いがありましたら是非ご住所氏名共々お知らせ下さるようお願いします。(青)  


鳰の海てふ水の器の地も冬へ

泣き顔は人には見せず冬鏡

小鳥来る家々のまだ覚めざるに

黄落を急く木急かぬ木美濃は晴れ

孤絶とは山頂に城据ゑて冬

土と云ふ物埋めるもの冷ゆるもの




1ヶ月程前、東京の知人から電話があり高畑浩平氏のご逝去を知らせてくれました。浩平氏は生一本の『雲母』の俳人であり、第46回角川俳句賞受賞者でもありました。受賞後、浩平氏、金子青銅氏、小生の3人で既に雲母を終刊されていた飯田龍太先生を訪れたことがあります。龍太先生は「浩平さん、良かったね」と言葉をかけておられました。

句風という言葉があります。

「雲の辺へ子を生みにいく紅鮭(あめのうお)」

「月明や土に消えたる墓の数」

「ぶすぶすと一ノ矢二ノ矢曼珠沙華」

「山焼きし匂ひがぬつと奈良の町」

など、浩平氏らしい作品でした。

独自の句風を示すのは難しいことですが、浩平氏はそれを体得した俳人であったと思います。また一人惜しい雲母俳人を亡くしました。(青)


ゆるやかに地を犯すごと夜寒かな


虫のこゑ木曽へ繋がる美濃の闇

幼子の笑み応えして秋日濃し

身中に妬心棲みつく小六月

蔵の影濃くして月の昇りけり

秋夕焼思想はなべて虚構にて




11月7日は「山の講」の日です。町内の子供たちが地域の山にある社にお参りし、平穏無事を祈る日でした。小学校6年生がリーダーで取り仕切りました。社の前で小さな火を焚き、油揚げを焼いて皆で食べました。子供たちだけで山中で火を焚くのですが咎められることはありませんでした。

母の在所では「山の講」は盛大に行われていました。母の生家に泊まったとき、近辺の少年たちの「山の講」の様子が夜の闇を通して聞こえてきました。

松明を手に山中にある社へ少年たちが集まります。社へ登る最中には大きな声で「山の講」の歌を歌いながら…。「よ~切れるカミソリでう~まの(馬の)キンタマぶち切って~」

現在は「山の講」は行われていません。少年の頃の懐かしい思い出になっています。(青)


曼珠沙華土中より紅絞り出す

秋深む美濃も奥なる家三戸

甲冑の口何か告ぐ秋真昼

九月尽雨滴の数の水輪生み

鷹か鳶か一枚の羽根拾ひけり

コスモスの揺るるは遠き恋に似て




『福田甲子雄全句集』(ふらんす堂)が出版されました。瀧澤和弘、斎藤文子、保坂敏子の3名が刊行委員として努力され日の眼を見た一書です。福田氏の全俳句作品、自句自解、文章等が記載されています。

その作品は「生誕も死も花冷えの寝間ひとつ」「桃は釈迦李はイエス花盛り」「稲刈って鳥入れ代る甲斐の空」「鑑真の眼か堂守の埋火か」「天辺に個をつらぬきて冬の鵙」など充実したもの。

残念なことは病のため師の飯田龍太先生より先に逝去されたことです。

わが額に師の掌おかるる小春かな」は氏を知る人の心にいつまでも残る一句です。  

最後にお会いしたのは『雲母』終刊2年後、龍太先生と共に飛騨高山を訪れられた時でした。にこやかなお顔が胸から消え去ることはありません。(青)