四月来る美濃は陽気な雲浮かべ   

誓子忌や国捨てざれば立志無し

銀翼の点となり消ゆ春の空

花粉症斯くも辛きは何の咎

春月を仰ぐ銀河の端にゐて

春の夜や地下水脈の音聞かむ



作家司馬遼太郎が江戸前期の大阪の町人学者富永仲基に着目したことに大いに惹かれます。

富永仲基は若くして亡くなりましたが、加上論という学説を打ち出しました。後発の論者はその正しさを示すためにより古い経典を頼りに加上するという説です。司馬遼太郎の作品に富永仲基に触れたものはありませんが、司馬の次の言葉はまさに仲基と思いを同一する視線だと言えます。

「思想というものは本来大虚構であることをわれわれは知るべきである。思想は思想自体として存在し、思想自体として高度の論理的結晶化を遂げるところに思想の栄光があり、現実とはなんのかかわりもなく、現実とかかわりがないというところに繰り返していう思想の栄光がある」(司馬遼太郎「歴史の中の日本」より)(青)

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